人間は、自分が正しいと思いたい生き物である
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「自分は正しい」ということを、不動の真理としてモノを考えると、「自分は正しくない」という結論は絶対に出てこない。
同様に「貧乏人は間違っていない」というところからスタートすると、「貧乏人は間違っている」という答えは絶対に出てこない。
考える前に勝手に答えを自分で決めておいて、それを正しいと無意識に判断して物事を考えていたわけだから、当然と言えば当然の話である。
がしかしボクは永い間それに気がつかなかった。
いや恐らくは薄々気づいていたのだろうが、その考えを正面きって受け入れることがなかなかできなかった。
道理でいくら考えても現実に一致するような、妥当な答えにたどり着けなかったわけである。
そしてまた道理でアマノ君やユカリさんの行動や考え方が理解できず、彼らの行動やモノの考え方が何か邪悪なモノのように見えていたわけである。
無謬性と優越性に立った人間は、他人をたしなめたり攻撃的になったりする傾向があるが、シンガイ君がアマノ君に何かと意見したのも、そういうたぐいの心理だったのかも知れない。
とどのつまり貧乏人は裕福な人間の暮らし方を知らず、知ってもその根本にある知恵や考え方を、理解できないが故に貧乏なのらしい。
お金がないから貧乏なのではなく、裕福になる様々な知恵を持たなかったり、親から受け継げなかったりするために貧乏なのらしい。
そして貧乏人は裕福な家庭が実際に、どんな暮らしをしているのかわからないもんだから、「こんなものだろう」とか「うちはまだマシな方だろう」などと勝手に判断し、粗悪な生活や人生を繰り返すだけだったのだ。
ボクは大学に通うために京都へやって来て、幸運にも裕福な家庭に育った友人達の、生活を垣間見る機会に恵まれた。
そうしてようやく自分の育ってきた環境が、内容的にあまりにも悪いものだと知った。
もちろん最初はまだ「何かヘンだな」、というぐらいにしか考えてはいなかった。
だが彼らや彼らの親たちが住環境に気を配り、寝具や衣服にもこだわる態度に触れ、そしてまた彼らが自分と伴に夜遅くまで、麻雀したり酒を呑んだりしていたにもかかわらず、翌朝元気にバリバリとメシを食い、朝一番の授業にもちゃんと出席しているのを見て、人間としての地力の差を実感せざるをえなかった。
そういう差に気づくたびにボクは
「うわっ何でこいつらはそんな事を平気でできるんや?」とか、「うわっ何でこいつらはそんな考え方を平気でできるんや?」などと驚いた。
そして彼らの思考パターンや基本的な生活の優先順位が、一体どうなっているのだろうといつも考えざるを得なかった。
そして「貧乏人は間違っていない」という、自己洗脳の罠から逃れられたお陰で、ボクの目に裕福になるカラクリと貧乏になるカラクリが、おぼろげながら見えてきた。
育ちのいい人は笑顔と健康が自分の資本だと知っている。
育ちのいい人は良いモノの良さや、その価値を知っている。
育ちのいい人はお金の使い方を知っているし、自分や周囲の者に投資するという事も知っている。
そして育ちのいい人は努力するという才能を、持ち合わせている。
彼らは金銭だけでなく人生をどうやって明るいモノにするかという、貴重な知恵と訓練を親に授けられて育ってきていたらしい。
世の中には『裕福』と呼ばれる価値と、『貧乏』と呼ばれる病気があったのだ。
(第三章・おわり)