必需品は、時代によって中身が違う
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人間にとって何が必要で、何が不必要であるかという問題は、どうも時代や文化の問題とは、切り離すことができないようである。
これはたしか日下公人さんの本で、読んだことだったと思うのだが、日下さんは学生の頃、イギリスの産業革命が繊維製品の大量生産だったと聞いて、とても不思議に思ったそうである。
「それではまるで彼らがそれまでずっと、裸で暮らしていたみたいじゃないか」。
日下さんはそう思い、そしてなぜ衣服を大量生産して、それがそんなに売れたのかと考えた。
確かにそれは不思議なことである。
というのも当時は今ほど衣料に多様性はなかっただろうし、そして別にそんなものをたくさん買わなくても、生きて行けただろう。
賃金だって生存可能なギリギリの賃金だっただろうし、競って服を買うような状態ではなかったはずである。
しかし日下さんはゾンバルトの研究を挙げ、「そうではない。そうではなくて、一般の庶民もそれまでちゃんと衣服を着て暮らしていたのだけれど、実はみんな貴族のように毎日衣服を着替えたかったのだ。
下着も何週間に一度洗濯して着つづけるより、週に二回は洗濯したキレイなものに着替えたかったのだ。
だから衣服が大量生産でかつてより安く買えるようになった時、みんなうれしくなって競って買ったのだ!」。
…などという意味のことを述べ、そして最後に「しかし当時の識者はそれをゼイタクだと言った」と書いていた。
今の時代で週に二回しか下着を替えないとすれば、「不潔」と言われて嫌われてしまうのがオチなのであるが、つい二百年前に同じことをすればそれはゼイタクだと言われたらしい。
ゼイタクだと言われるということはそれが不必要だということだから、当時の感覚では着替えの衣服などは、必需品だとは考えられていなかったことになる。
また鯖田豊之さんの、「肉食文化と米食文化」という本を読むと、近世以前のヨーロッパでは肉を食うより穀物を食べる方が、実はゼイタクだったという話も載っている。
我々日本人は長年水耕栽培で連作がきき、反収がとんでもなく多い亜熱帯性植物の稲を、栽培の中心においてきたので、肉より穀物のほうがゼイタク品だと言われても、まるでピンと来ないし実感も湧かない。
がしかし実は小麦やライ麦というのは、近代まで同じ畑からは三年に一度とか、五年に一度しか収穫できない作物で、しかも一粒の麦が五粒とか七粒にしか増えないような、生産性のかなり低いシロモノだったのである。
そして逆に牛や羊や鶏といった家畜は、人間の食えないような草を飼料として食い、またブタなどは麦とは違って、毎年のように子ブタをたくさん産む家畜であった。
だから肉の値段は日本人が考えているよりはるかに安く、そしておうおうにして小麦を原料として造った、パンの値段より安くなることが多かったのである。
当時の庶民の主食は野菜くずやパンくずを、乳製品で煮込んだポトフ(麦ガユ・ポタージュ)のようなものや、ベーコンのような塩漬け肉であった。
そういう臭くて不味い肉を「ガマンして」食べ、そして彼らは命をつないでいた。
だからこそ彼らはその臭みを抜くためのコショウを求め、そしてそのために危険を冒してまでも大海原に乗り出したのだが、つまり我々が今当たり前のように食べている小麦でさえも、つい二百年か三百年くらい前までは立派なゼイタク品であり、そしてまたご馳走だったのである。
そういう風に考えていくと、確かに服を着た動物は人間かミノムシぐらいしかいない。
農業をしている生き物も、人間と葉切りアリぐらいしかいない。
もちろん日光猿軍団のサルや次郎君たちは立派な服を着ているが、しかしたいていの動物は服など着なくても生きていられるし、また農業などせずとも立派に生きている。
だから極端なことを言えば、衣服や農産物でさえも実は我々にとっての必需品ではなく、もしかするとただのゼイタク品なのかも知れない。
テレビやラジオ ステレオやパソコンなどと言ったものと同様、なくても済ませられるようなモノなのかも知れない。
「必需品」というモノはだから、名前はあるが実物が特定できない唯名的なモノであり、そしてその内容は時代時代や状況によって全く違うのである。