暮らしの良さはにじみ出る?
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ドリトル先生航海記にしても、エレクトーンにしても、それはボクらが共に遊んだ小学生の頃に、親に買ってもらった代物である。
そのころはまだウチの父親もちゃんと働いていて、そしてウチもちゃんとしたサラリーマンの家庭ごっこをやっていた。
ウチはそれからどんどん没落していったが、彼の家は順調に暮らしていたはずである。
だからそれ以降も彼の家ではいろいろなモノを買い、そして財産を殖やしていったはずであった。
高校時代に彼の家へ行った時にも立派な本棚を見たし、高校進学のお祝いにお婆さんに買ってもらったという、ソニーのステレオ・コンポも見せてもらった。
それも確かにちゃんとヤグチ君の新しい家には置いてあったのだが、しかしそれら以外のつまらない家具や道具と言ったモノは、どういうわけだかそこには全くといって見当たらなかった。
もちろんその家を建てるために、彼の家が極力ムダな出費を抑えていただろうことは想像に難くない。
ヤグチ君のお母さんは堅実だし始末屋だから、必要以外のモノは買わなかっただろうというのはよくわかる。
だがしかしボクにはそこに何か、何か自分の家庭とは全く異質な雰囲気があるように思えてならなかった。
何とか形容して言ってみれば、その家にはある一定のレベル未満のモノは、一つとしてなかったようであった。
どう表現すれば適切なのかよくわからないが、強いて表現すると「そこにはガラクタが一つもない」ように感じられた。
つまり彼の家には「捨てるようなガラクタは、初めからまるで買っていないよう」だったのだ。
そして反対に自分の家にはどうも、ガラクタ「しか」ないんじゃないかと思った。
タンスにしても本棚にしても机にしてもソファにしても、彼の家にあるのはどっしりとした重厚な品であり、そしてボクの実家にあるものは木切れを集めて造ったような、ただのガラクタのようであった。
まったく同じ機種であるはずのエレクトーンでさえもが、そこでは全く違った質量とツヤを持って存在しているかのように思えた。
「一体どういう事なんだろう?
一体いつの間にヤグチ君の家とボクの家に、こんな差ができてしまったのだろう?」。
アインシュタインの時計あわせの話ではないが、別々の空間に置かれた二つの時計が別々の時刻を指すように、ボクの家と彼の家は全く異なった空間に存在し、そして全く異なった結果を結んでいるかのように思えた。
しかしその頃のボクにはそれが一体何を意味し、何が原因でボクの家と彼の家との間にこんなに、大きな差ができてしまっていたのかはわからなかった。
ただ何となくそこには親の質という根本的な違いがあり、そしてそれが形を成してそこに現れている事を、何となくただかすかな違和感として感じていただけであった。