ヤグチ君の新しい実家の話
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ボクが大学に入った頃のことである。
ヤグチ君から「入学祝いをしてあげるから、ウチに来い」と招待されたことがあった。
ヤグチ君と言うのは少年時代を、同じ団地で過ごしたボクの友人である。
彼は前の年に現役で京大理学部に合格し、学者への道をばく進していた。
「幼なじみなんだし、これからまた同じ学校に行くんだから、いっぺん遊びにおいでよ」彼のお母さんにもそう誘われ、社交性の全くないボクも腰を上げた。
そうして建ててまだ二年ほどしか経っていないという、彼の新しい実家を訪ねたのだ。
当時の日本はまだ、高度経済成長の余韻が残っていた時代である。
バブルが発生する十年も前で、サラリーマンでも頑張れば、新興住宅地に安っぽい分譲住宅が買えた時代である。
だから彼の家もそう言う感じの建物かと思って訪ねたのだが、あにはからんや彼の新しい実家は、お父さんが知人に頼んで設計してもらったという、北欧風の白い瀟洒な建物だった。
一階は広いリビングルームになっていて、その奥はきれいなダイニングテーブルと、オレンジ色の吊りランプが据え付けられていた。
その奥には広めの台所と、食卓にも仕えそうなしっかりしたテーブルが設えてあった。
二階は家族それぞれの部屋になっていて、天井も充分高いスッキリしたいい作りになっていた。
まあもちろんそれはサラリーマンの建てた家だから、御殿と呼ぶような豪華なモノではなかったけれど、しかしそんじょそこらの安物の狭い建売り住宅とは全く違った、本当に雰囲気のいい建物であった。
「すごい良い家やなあ」。
そこはボクらが子供時代を過ごした
狭い3Kの団地とは全く異なる別世界であった。
ヤグチ君のお母さんにあいさつし、昼飯をご馳走になったあと、ボクらは二階に上がってヤグチ君の部屋で世間話をしていた。
確か大学の授業の仕組みとか、授業の登録の仕方とかプログラム電卓がどうとか、命題がどうたらこうたらとか言うような話だったように思う。
そんな話をしながらボクはなぜか落ち着かなかった。
というのもそれは彼の部屋がどうもえらくガランとしていて、空間が広すぎるような感じだったからである。
天井も高いしモノもあまり置いていない。
手を伸ばせばすぐに壁に触れるようなわが家とは違って、部屋の中でラジオ体操でも、太極拳でも剣道でさえもできそうなそんな感じだった。
3Kの狭い団地から広い二階建ての家に引越してきたのだから、部屋の中がガランするのは当たり前の事だったかも知れない。
がしかしそれにしてもかなりスッキリしすぎである。
だからボクは彼に、「あれっ本とかタンスとかはないのん?」と尋ねてみた。
「本?」彼は少し怪訝な表情を見せて聞き返したが、すぐに立ち上がって収納スペースだか本棚だかを開けて見せてくれた。
小学生の頃は毎週のように、それぞれの弟たちを引き連れて西宮の図書館に通っていたし、ヤグチ君は塾も家庭教師もなしで、大学に現役合格したようなヤツだったから、さぞかしたくさん本を持っているのかと思って、ボクはそう彼に尋ねたのだ。
だが驚いたことに彼の見せてくれたその本棚には、小学生の頃によく彼の部屋で見かけた、「ドリトル先生航海記」だとか「ファーブル昆虫記」などという本が、申し訳なさそうに何冊か並んでいるだけであった。
「たったこれだけ?」ボクが驚いてそう言うと彼は平然として
「だってたいていの本は図書館で借りて読めるし、中学・高校の参考書は弟が使ってるから、ここには大学の教科書とかこんな本しか置いてないんだ」
…とそう答えた。
確かにボクも中学高校時代はあまり本を買って読まなかったし、彼と同じように小学生時代に親にねだって買ってもらった、ナルニア国物語シリーズ以外には大した本は持っていない。
けれどまさか本棚にそれだけしか並んでないとは。
マンガや雑誌や文庫本で、部屋の中を埋めつくされている自分の部屋の様子を考えるにつけ、ヤグチ君の部屋の様子はボクにとっては大きな驚きであった。
「一体これはどういうことだろう?」。
ボクは何かそこに自分とは異質な価値観を持つ、かつての幼なじみを発見した。