ケチとは、我慢をただお金に変えただけである
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だがしかし社長の次に紹介されたケチは、もっともっと暗かった。
そしてもっともっと貧乏くさかった。
というのもその次に紹介されたのは、風呂の水を一年間全く替えないで、何万円かを節約しているという、小太りのおばさんだったからである。
そのオバサンは自宅の風呂場に立ち、そして「もう何年もお水を替えてないんですよ」と言って、不気味に微笑んでいた。
テレビに映ったその風呂の湯は赤茶けていて、どうにもこうにも表現しがたい、不思議な色をしていたのだが、そのおばさんは平気でそれにつかり、そして「病気もまるでしなくなったし、健康にもいいみたい」などと笑っている。
水虫の民間療法の一つに、バケツに入れた酢に足を毎日つけて治す、『酢療法』と言うのがあるそうだが、その風呂版みたいなものだろうか。
風呂でももしかしたら、そういう効果が期待できるかも知れない。
健康になってその上浮いたお金で宝石やネックレスを買えるなら、まさに一挙両得?
だがしかし彼女はそれを見て「うわっ」と言っただけで、後は何も言わなかった。
「何万円も浮くらしいよ」とからかってみたけれど、「そんな生活するくらいやったら死ぬ!」と即座に言った。
どうやら彼女はそんなことまでして、アクセサリーなど手に入れたくはないらしかった。
それはそうだろう。
その方が普通だからこそ、このオバサンはテレビで紹介されているのだし。
番組ではそれからも、広い庭や物置に拾ってきた廃品を、山積みにし喜んでいるオジサンとか、水を糸のようにして出して、水道のメータをごまかしているオバサンとか、パンの耳を買ってきて色々なオヤツをつくって、子供のオヤツ代を節約しているお母さんとか、そういった様々なケチたちを次々に紹介していった。
だがとどのつまり彼らは何かを我慢して、それをただ金に置き替えているだけのようであった。
プライドを棄て何かを我慢して、それをお金に換えただけのようであった。
言ってみればケチる事によって節約できるモノが、電気代やガス代といったお金に換算しやすいモノで、その対価として失われるモノが快適さとか気分とかいった、お金に換算しにくいモノだというだけなのである。
「それやったら結局全体としては、なんにも得してへんがな」という感じだった。
だいたい風呂だって水道だって、元は我々の先達たちが豊かさや快適さを求めて努力し、その結果としてできたものである。
そういう物を上手く使って節約したり新しいものを作って、人々の苦労を半減したりしようとするならまだしも、ただ幾らかの金に換えるために、それらをガマンしてお金を節約するというのは、どうも意味がないんじゃないかという気がした。