裕福を解く鍵は、五蘊盛苦かも知れない
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パチンコで勝っていても負けていても、飽きたらさっさと止められる。
彼女の口からなぜ、そういう感覚的な言葉しか出てこなかったのか。
そこにボクは育ちのいい人間というものが、なぜガラクタをつかまないか、そしてガラクタをつかんでも、なぜすぐ手放すことができるかという疑問を解く、重要な鍵を見つけた。
彼らはどうもアタマではなく、皮膚感覚や五官全部でそれを感じているらしい。
彼らは何らかのシグナルによって、本能に近い反応でガラクタを見分けて拒否するらしい。
つまり彼らは無意識のうちにガラクタを除けることができるし、子供が嫌いなモノを押しのけるように、ガラクタが身近にあると何とかして遠ざけたくなるようなのだ。
「五蘊盛苦(ごうんじょうく)か…」。
ボクの脳裏にそういう言葉が浮かんだ。
五蘊盛苦とは仏教用語で、根元的な苦しみの一つである。
四苦八苦の八番目の苦と言えばわかりやすいか。
仏教では「生まれること」「死ぬこと」「老いること」「病むこと」を、先天的・肉体的な四つの苦しみであるとする。
そして「愛別離苦(あいべつりく・愛するモノと離ればなれにならねばならない苦しみ)」、「怨憎会苦(おんぞうえく・嫌いなモノとも出会わねばならない苦しみ)」、「求不得苦(きゅうふどっく・欲しいモノが手に入らない苦しみ)」、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」という後天的・心理的な四つの苦も、人間を苦しめる根源的な原因だという。
総称して「四苦八苦」あるいは単に「八苦」と呼ぶが、戦前の大説法家である友松圓締の『法句経講義』によると、五蘊盛苦とは五体の機能が盛んになりすぎて、オーバーロードしていることによる苦しみである。
五蘊盛苦の五蘊とは、色・受・想・行・識という五つのことで、色とは肉体あるいは物質のこと、受とは外界からの刺激を感じる作用のこと、想とは見たままをイメージする表象作用のこと、行とは行動を起こす意志作用のこと、識とは五感からくる情報をまとめて一つの全体イメージを作る作用のことである。
仏教ではこの五つの要素で人間が成り立っていると考えている。
色(肉体)以外は神経や脳や心の働きであるが、この五つの要素のうちのどれかの活動が活発になりすぎて、それを自分ではうまくコントロールできなくなってしまうと言う苦しみが、つまり五蘊盛苦である。
たとえば若い男女が欲望を抑えられずに暴走したり、自分は淫乱なのじゃないかと悩んだりする類の苦しみも、五蘊盛苦の一種である。
感受性が過敏になって、ススキの陰にもビクビクするというのもその一つである。
モノはきっちりと整理整頓されていなければいけない、世の中のことは辻褄が合わねばならない、…などと怒る人も多いがこれも実は五蘊盛苦である。
「教授」と呼ばれているある人気作曲家が、以前インタビューで「演歌はどうも音楽だと思えない」
…などと言っているのをTVで見て「ふーん」と思ったことがあるが、クラシック音楽という理論がハッキリしたモノをしっかり学んで、豊かすぎる音楽性(識)を身につけてしまうと、常にそれを物差しにして他の音楽を判断するようになってしまい、それに満たないモノは心が拒否するようになってしまうのだろう。
こういう苦しみも五蘊盛苦なのである。
五蘊盛苦の解釈は門派によって諸説あるが、他者との関係ではなく自分という存在の中から、どうしようもなく出てくる苦しみが五蘊盛苦である、と考えればよいのではないかと思う。