一の矢は受けても二の矢、三の矢は受けず
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ブッダのそういう問いに対して、残念ながら弟子たちは答えることができなかった。
まあ答えを自分で出せないからこそ、ブッダに付いて学んでいるわけだから、答えられなくてもおかしくはない。
だから弟子たちはブッダに対して教えを乞うた。
「わかりません。
申し訳ないですが教えて下さいブッダよ」と。
それに対してのブッダの説明はこうであった。
「仏の教えを未だ聞いていない世間一般の人間というものは、悲しいことや苦しいことがあると、無用に悲しんだり苦しんだりしてさらにどんどん落ち込んで行き、そして最後には底無しのドロ沼に足を突っ込んでしまうものなのだ」。
恋人にふられたとか受験に失敗したとか、はたから見れば取るに足らない小さな出来事であっても、それを苦にして悲観し自殺する人間は、現代社会でも後を絶たない。
冷静になって判断すれば、いくらでも取り返しのつくようなことであっても、悩みが膏肓に入ってしまうとどうしようもならなくなる。
それはお使いに行った小さな子供が、わずかなお金を落としたぐらいで、「ウチが破産したらどうしよう」と脅えるようなことなのであるが、現実にはそういうことでも命まで落とす。
「これは第一の矢を身体に受けた後に、ちゃんと体勢を立て直すことができず、次の矢もその次の矢もその身に受け、その結果取り返しのつかない致命傷を、負ってしまうことと同じことなのだ」とブッダは説明する。
そしてまたさらに付け加えて「そしてまた、それは苦受の場合だけに留まらず、楽受であっても同じことが起こる」と言う。
「普通人間というのは楽しいことや、うれしいことに出会えばそれに浮かれて陽気になる。
思いがけない人間にであったり、思わぬ大金を手に入れたりすれば、誰だって大騒ぎするしはしゃいだりする。
しかしそれもやはり冷静な態度ではない。
だから楽しすぎても常軌を逸し、その結果やはり二の矢三の矢を、まともに受けるようなことが起こってしまう」。
ギャンブルなどではビギナーズラックなどと言って、ド素人でも大当たりを引くことが結構ある。
しかし人間は最初に何の努力もなしに、いきなりイイ目を引き当ててしまうとかえってドロ沼に
はまり易いものなのである。
パチンコをする時などにボクもよく体験することなのだが、緊張しながらゲームを始めてすぐさま大当たりなどを引いてしまう、と途端に気が緩み
「今日はいい台を引いた。
一万以上は堅いな」などと勝手に思い込んでしまうことが多い。
そして頭はすでに「アレも買おうコレも買おう」などと、勝手な皮算用でいっぱいになり、その台が実際によく出るかどうかなんて関係なく、どんどんどんどんお金を注ぎ込んで、結局帰る頃には有り金全部はたいてしまったりする。
最初の思わぬ幸運にパチプロをやっていたような、ベテランでも簡単に浮かれて失敗してしまうのだ。
サギやペテン師がなぜあんな上手すぎる話で、多くの人間から大金を巻き上げれるかと言えば、人間のそういう性質をよく理解しているからだと言える。
「苦受であっても楽受であっても、それをキッカケにして人間は致命傷を負い、ダメになってしまうものなのだ」これがブッダの洞察だったのである。
冷静な凄い洞察である。
そしてブッダは仏教の効用を次のように説いた。
「仏教者であっても美しいモノを見れば美しいと感じるし、嫌なことに逢えば嫌だと感じる。
しかし仏教者が他の者と異なりそういう受に溺れないのは、それを常に客観的に捉え冷静さを失わないからである。
つまり、『第一の矢は受けても、第二第三の矢は受けない』ということなのだ。
そのために仏弟子は修行をし悟りを開くのだ。
それが普通の人間と仏教の教えを聞く人間との差なのだ」と。